自己紹介
はじめまして有限会社亀川石材店の亀川洋と申します。昭和50年11月27日生まれ。一般的に意志の強い行動派だと言われやすいO型射手座、傷つきやすい性格だと言われやすい卯年生まれです。生まれと育ちは神奈川県足柄下郡真鶴町。趣味は約10年前にダイエットで始めたサーフィンと、平安~鎌倉時代位のお墓やお寺の礎石などを見ることと、渓流釣りが好きな息子に影響されて始めたイワナ釣りです。亀川石材店は大正13年創業。神奈川県真鶴町で採れる本小松石を採掘、加工販売をしている会社です。初代米次郎は多摩御陵の入り口にあります手水鉢を材納。2代目芳次は真鶴町の議員も務めました。3代目英一は武蔵野陵にあります昭和天皇陵に本小松石を材納。組合で材納し、亀川石材は昭和天皇陵の階段部分を担当しました。材納した本小松石は今も見ることが出来ます。4代目の私、洋は小田原市の相洋高校卒業後、当時石屋は儲かっていた感じがしたのでやりたいことも特に無かった私は楽をして儲けれそうだという軽率な気持ちで家業を継ごうと石屋になることを決意しました。今思うととんでもない話ですね(笑)そう父親である 3代目に伝えると「他人の飯を食ってこい」と言われ訳も分からずに石の産地である愛知県岡崎市の石材店に修業に行くことになり 4年間修業しました。修業中は仕事の時間はお墓の制作や建立をし、夜は専門学校である岡崎工学院の石材加工科で石のことを勉強する日々を過ごしました。修業中は職人さんの送り迎えをしたり一番下っ端なので沢山仕事があり苦しい、面白くない、早く家に帰りたいとばかり思っていましたが手加工の技術が覚えられ、ものづくりの楽しさを知ることが出来たので、今思うと、とても良い思い出になっています。石の産地である岡崎には全国から石屋の息子が修業に来ていたので、夜は専門学校である岡崎工学院の石材加工科で学んだ全国の同年代の石屋の仲間とネットワークが出来ました。今でも気兼ねなく付き合いが出来る仲間が全国にいることが私の石屋人生の宝になっています。そして1998年に修業を終えて実家である(有)亀川石材店に入社。修業先の愛知から帰ってくるときにはお嫁さんも、もらってきました(笑)そのことを知っている方からは「君は石屋の修業じゃなくて、花婿修業に行って来たのか」と未だにからかわれます(笑)​​​​​​​
35歳の時の事故
修業から帰ってきた私は「本小松石の産地で一番の売り上げを作る、本小松石の産地で一番有名になる」という大きな目標を作り、全国のストーンショーに出展したり、日本石材工業新聞という業界新聞のコラムを月に1回掲載したり活動をしていましたが、2010年に採石場で石を運ぶタイヤショベルの操作を誤り、タイヤショベルごと坂道の上から横に1回転半転倒しました。私は転倒中に運良く運転席の足元の隙間に体が入り、奇跡的にかすり傷で助かりました。足元の隙間に体が入らなければ死んでいたと思います。ひっくり返りグチャグチャになってしまったタイヤショベルを見て「あぁ助かった、生きている。これは誰かが、あなたはまだ生きなさいと言っているんじゃないかな」なんて思えたのでした。事故前までは商売に対しておなかの中にギラギラとしたものがあったのですが、この事故をきっかけにもう余生だなと思い働く気力を失い、何をしていても幸せだと思うようになり、本小松石の産地で一番になるといった目標は消えていきました。
伝統技術を守りたい
実は私、「むしり仕上げ」という加工が出来るんです!むしり仕上げはノミとセットウを使った昔ながらの加工方法で石を叩いて作っていく仕上げです。修業先の愛知県で職人さんに技術を教えてもらいました。現在のお墓は石を切ってから石の表面を磨いて仕上げていくのですが、むしり仕上げは石を叩いてゴツゴツとした表面に仕上げていきます。一打一打叩いて制作していくのは体に負担と手間がかかり、気が遠くなるような作業ですが、ノミ跡が残る表面はとても美しく、時間と共にとても味わいのある表情になります。むしり仕上げという技術はとても大変な作業なので、むしり仕上げが出来る職人がどんどん少なくなってきています。消えゆく伝統技術を守りながら美しいお墓を作りたい、本小松石を使った良いお墓、重要文化財になるような日本の伝統的なお墓を作りたい!伝統技術とお墓文化の伝承という私の新たな目標が出来ました。そして「むしり仕上げの美しさを世界の人に伝えたい」というミッションも出来、日々制作、伝道活動に励んでおります。むしり仕上げをしている亀川石材店の加工場に是非見学に来て下さい!イベントなどにも出店していますので見ていただけると嬉しいです。
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